2015年04月03日

昔ばなしと、これからと。

そのとき、私は高校生だった。

それ以上でも以下でもない、ただひとりの田舎の学生だった。


今では結婚して、
そのとき見ていた彼らと、同じような歳になった。

そして今、思う。
私たちは一体、他人にどれほどの期待を押し付けていたのか、と。








私の"トン活"(おいしそうで気に入ったのでこの呼び方をする)は、
ある日とつぜん終わった。
終わった、とさえ思わないほど静かに終わっていた。

彼らの一挙手一投足、見守ることはなくなった。


時折タイムラインに流れてくる誰ぞの呟きのおかげで、
「おる」とか「おんり」とかいう、分類がされたことだけは知っている。







生きていくなか、何を好きでいるかは自由だ。
何を嫌いでいるかも自由だ。

でも、この二極には決定的な違いがある。


好きなものを周りの人に訴えることは、たいていの場合で平和だ。
不幸な人より、幸せな人を増やす魔法だ。


嫌いなものを周りの人に訴えることは、攻撃だ。
討論の余地のない主張を目の当たりにすると、痛くて、苦しい。


よく知りもしない物事や人を、
そう簡単に嫌いだと言い切ることはできないはずだ。
ましてや、批判したり蔑んだりしてはいけない。
そんなことは昔から法律も知っている。








おおきなものは、おそろしい。


どこかに消えてしまった、
溢れるほど届いたはずのファンレター。
おおきなものが、消してしまった。


成し遂げられなかった、缶バッジ作戦。
おおきなものの中で、行き先が分からなくなっていった。


数えられないほどに集まった署名は、何か成し遂げただろうか。
それよりおおきなものの前では、ただの文字列でしかなかっただろうか。

署名活動を主導してくれていた人と、電話で話したりもした。
思い返すと、当時自覚していたよりも、私は渦の中心近くにいたらしい。








もしかしたら、また5人が並ぶ日が来るかもしれない。

そのとき、
認める?認めない?
何を、何かを、批判する?

そんな権利は、私たちにはないと思う。


好きなものは好きだと叫ぶ。
嫌いなものは心に仕舞う。

大人とはそうあるべきで、
当時から、私たちよりも彼らは大人だった。
大人びていた。


同じ歳になったからこそ思う。
粗探しなんて、されればされるほど粗は出る。
20代なんて、まだまだ未熟だ。
もっと言えば、きっとその先も未熟だ。







彼らの作品そのものを愛していた人は、
きっと「おる」の方に多いんだろう。
彼らのキャラクターを愛していた人は、
「おんり」の方に多いんだろう。


どちらも正しいと言えば正しいけれど、
過干渉は、いけないよ。



幸せは、本人にしか分からないのだから。
posted by ichiko at 14:00| Comment(0) | +SARAHANEUN+ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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